銀閣寺東求堂同仁斎

2019.08.15

京都東山。

かつて東山文化として栄華を誇った銀閣寺。
銀閣寺には足利義政の作った東求堂同仁斎があります。
現代にも続く書院の文化を象徴する建物です。

今回は銀閣寺東求堂同仁斎について紹介します。

東求堂の由来

東求堂は足利義政が建立した東山山荘内に建てられました。
東山山荘は足利義政逝去後に慈照寺銀閣として寺院となります。

東求堂は持仏堂です。
持仏堂とは自分の持つ仏様を安置するお堂になります。
しかし、実際は4部屋あり、義政の生活の場でした。

東求堂の書院造の間取り



東求堂の建築様式は書院造となっています。
東求堂の書院造は有名ですが、書院造は平安期の寝殿造から派生しています。
寝殿造は貴族の建物であり、武士が社会的地位が向上するにつれて工夫をかさねた形が書院造であり、かつては武家造ともいわれていたようです。

東求堂の間取りですが、部屋が4室あります。
4室は田の字状に配置されています。

東求堂内の東北には同仁斎があります。
東求堂同仁斎は四畳半となっており、茶室の原型であるといわれています。
東求堂同仁斎の西側は6畳の間。
東求堂同仁斎の南側は4畳の間。
東求堂同仁斎から見て対となる西南には8畳の仏間があります。

東求堂同仁斎での足利義政の生活


足利義政はこの4室で主に生活をしていたといわれています。

鎌倉期以降、武士と宗教の関連性が強くなっていきます。
源頼朝は父の仏事に篤かったといわれていますし、足利義満も後の金閣寺に関わっています。

室町時代から戦国時代へと変わるきっかけとなったのは応仁の乱ですね。
室町時代から江戸初期にかけて、日本は米の生産量が増加します。
それにより、豊となった日本は戦乱となりつつも人口も増加していきます。

足利義政の東山文化を代表する東求堂同仁斎。
ここでは、義政の生活スタイルが、その後の日本の住宅文化に繋がります。
時代が沸騰する少し前に足利家に伝わる宝物を整理したのも足利義政です。
それは君台観左右帳記にて様々な記録となりました。

美的センスが日本史に残った足利義政。
彼は応仁の乱の途中で花の御所を飛び出し、東山山荘に移ります。
そこで、書院に足利家の宝物を飾るということを行いました。
それが現代の茶の湯の世界にも息づいている床飾りなどに繋がります。

銀閣寺の東求堂同仁斎と足利義政について紹介しました。


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銀閣寺

〒606-8402 京都府京都市左京区銀閣寺町2

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