弘源寺本堂柱の刀傷は禁門変の際の長州藩士刀傷

2018.12.09

天龍寺塔頭の弘源寺。

弘源寺の本堂の柱には刀傷が残されています。
世に有名な弘源寺の刀傷は禁門の変の際に長州藩士が付けました。
時代の沸騰期の歴史が残ります。
弘源寺本堂の柱の刀傷の歴史をここでは紹介します。

 

弘源寺の刀傷の逸話・・八月十八日の政変

八月十八日の政変が京の都で起こります。

それまで京の都は長州藩がリードしていました。

それを快く思っていなかった薩摩藩と会津藩。

その両者が手を携えて、長州藩の追い落としに掛かりました。

 

弘源寺の刀傷は池田屋の変がきっかけ

長州藩は朝廷から追い出されます。

そして薩摩・会津に散々罵倒されました。

その長州藩では桂小五郎を中心に挽回を計ります。

挽回を計るために長州に同情的な人を集めて会合をします。

それが池田屋でした。

当日、桂小五郎は直感が働いたのか欠席しています。

その会合を新選組が嗅ぎ付けて突入します。

多くの侍がここで命を落としました。

 

弘源寺の刀傷・・自重論が消え去った長州藩

長州藩は朝廷から追い落とされました。

それに対して山口の政治堂では長州藩重役による会議が行われていました。

そこに、池田屋の変の知らせが飛んできました。

仲間を殺されたことで長州藩士の多くは激怒します。

そして自重論は消え、大挙上洛することになりました。

 

弘源寺の刀傷・・天龍寺に陣を敷いた長州浪士来島又兵衛

長州藩では血気盛んな若者に交じって藩の重役も上洛の先頭に立ちます。

長州藩士来島又兵衛です。
来島又兵衛は藩主の制止を振り切って上洛を決行します。
その際に脱藩したことにして長州浪士と名乗りました。

この来島又兵衛が嵐山の天龍寺に陣を敷きます。
長州勢は600名に上ったそうです。

天龍寺内に分かれて駐屯したでしょう。
その際に、弘源寺にも長州勢が駐屯しました。

血気盛んな長州勢は弘源寺の柱に刀傷を付けます。
刀の試し切りだったのでしょうか。


しかし、寺院の柱に試し切りをする・・・。
ちょっと平和な社会では考えられないですね。

長州藩は禁門の変に敗退します。
そして今度は薩摩藩兵が天龍寺を襲撃します。
本堂も大砲で焼かれてしまうなど被害がでました。

京都嵐山の天龍寺。
その塔頭の弘源寺は長州藩士の刀傷を今に残しています。

平和な社会を形成している現代。
歴史を垣間見ることも非常に重要だと思いました。

 

弘源寺本堂柱の刀傷は長州藩士が禁門の変につけた試し切りの後でした。


お散歩スポットのご紹介

弘源寺

〒616-8385 京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町65

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