大徳寺利休忌は表裏武者小路千家の交代で行われる

2019.01.31

京都紫野の臨済禅宗の寺院大徳寺。
野の寺の別名を持ちます。
今回は大徳寺の利休忌について紹介したいと思います。

大徳寺の歴史

大徳寺の歴史は遡ること1319年、大燈国師を開基としています。
大燈国師は播磨国有力豪族赤松円心の帰依を受けます。
大燈国師は赤松円心の家臣の家の出だったといわれています。
また、大燈国師はまくわ瓜が好きだったといわれています。

この地方の有力者との関係が大徳寺の発展の歴史に繋がっていきます。
また、大徳寺は後醍醐天皇から厚く保護されます。
しかし、その反動で足利氏からは冷遇されました。

その頃から政治に関わらない『野の寺』と呼ばれることもあったようです。
その後、大徳寺は次第に畿内で力をつけてきた堺の商人と親交が深くなります。


大徳寺と千利休

そして、大徳寺と千利休の交流へと進んでいきます。
千利休は堺の南宗寺に参禅したことから本山の大徳寺とも親交を持ちます。
時の人千利休が大徳寺と関係したことは諸大名に多くの影響を与えたでしょう。

やがて、千利休は豊臣秀吉から切腹を命じられます。
千利休の切腹の原因は諸説あります。
しかし、諸説を拝見していると、時の権力者との距離が近すぎたのでしょう。


大徳寺山門の千利休像

大徳寺山門金毛閣


そして、諸説の一つ。
大徳寺山門の千利休像。
秀吉がくぐる山門の上に千利休の木像が安置されます。
大徳寺にとって千利休は大事な人だったでしょう。

しかし、時の権力者秀吉も大徳寺を訪れます。
大徳寺総見院には秀吉の亡き主君織田信長が眠っています。

その際に、秀吉は利休の足の下をくぐることになります。
千利休は死を賜ることになりますが、大徳寺と千利休の縁は切れませんでした。
現在も大徳寺山門には千利休木像が安置されています。

大徳寺と千利休の子孫

千利休の子孫は蟄居を解かれたのちに茶道に勤しみます。
千利休の後妻の子千少庵は徳川家康や蒲生氏郷の執成しで赦免されました。
千利休の孫、千宗旦は喝食として大徳寺に預けられます。
千宗旦が少庵から家督を継いだのが1600年。関ケ原の年でした。



大徳寺利休忌は三千家交代で執行

大徳寺利休忌1月は表千家

千利休の孫宗旦の3人の子が立てた流儀に分かれています。

千宗旦の前妻の子一翁宗守の武者小路千家。
千宗旦の後妻の子江芩宗左の表千家。
千宗旦の後妻の子仙叟宗室の裏千家。



大徳寺利休忌は三千家が月交代で執行

大徳寺利休忌は三千家が月交代で行っています。

大徳寺利休忌の千家当番
表千家 1月・4月・7月・10月
裏千家 2月・5月・11月
武者小路千家 3月・6月・9月・12月(8日)


大徳寺利休忌について紹介しました。




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